街の探検隊:河原水田の面影、堰上(せきうえ)明神社(福生市)

2018年6月12日 (街歩き 心の風景)

 福生市の北田園(旧福生村)、南田園(旧熊川村)は昭和40年代まで水田が広がっていた場所である。この水田を潤すために種々の取り組みがなされてきた。その一つが永田橋付近での多摩川からの用水引き込みであり、堰上明神社下で堰上げと取水が行われた。取水開始時期は寛政7~8年(1795~96年)とみられている。
 文政8年(1825年)には川崎村(現羽村市)から用水を引いている。川崎村河原水田のための川崎村田用水の流末を貰う形である。取水口は羽村堰で、現市営競技場、かに坂公園、長徳寺下を通り、堰上明神社下の水門から導かれた。昭和22年の台風で長徳寺や堰上明神社下の水路が欠壊するまで、福生・熊川両村の河原水田を潤してきた。
 慶応3年(1867年)に田村家(田村酒造)の生活用水限定で許可された田村分水は、明治8年(1875年)に増水が認められ、田用水としての利用が始まった。田村分水は堰上明神社近辺で川崎村田用水と合流された。
 田用水の維持拡張には多くの尽力が払われてきた。堰上明神社には、田用水改修記念碑が建っている。田用水は合流点の直後で分流し、拝島崖線下に向かったのが車掘(下の川)、水田の多摩川寄りを進んだのが熊川堀であった。かつて車掘・熊川堀の分岐点にあり、流量調整に使われた堰柱が堰上明神社に移されている。車掘、熊川堀の名が刻まれている。
 承応2年(1653年)に開削された玉川上水は、羽村を取水口とする前に、青柳村(国立市)、福生村からの取水を試み失敗したとされる(『上水起元』)。福生村での取水の試みが行われた場所は明確ではないとされるが、この堰上明神社付近というのが有力な説のようだ。『新編武蔵風土記稿』では堰上明神社の由来として、古堰の上に流れ着いたご神体を祀ったという村民の伝えを記している。また『武蔵名勝図会』では堰上明神社付近に玉川上水の古い取水堰があったという住民の伝えを記している。

堰上明神社付近のかつての田用水 (用水の経路は概略。何回か流路変更 があった。)

堰上明神社付近のかつての田用水